高校を半年も経たないうちに退学せざるを得なかった朱莉は、はっきり言えば学力に欠けていた。中退してからはずっと働き詰めで勉強等する時間もお金の余裕すら無かった。今、通信教育で高校卒業資格を手に入れる為に一生懸命勉強をしてはいるが、それでも英語力だって中卒程度のレベルしか無い。一方、あの2人は素晴らしい学力も備え、聞いた話によると明日香も翔も英語だけでなく、フランス語と中国語も堪能らしい。 そう、翔と明日香に恥をかかせない為にも……自分は常にあの2人からは距離を置いておいた方が良いのだ…。朱莉はそう感じていた。 やがてパイロットとの話が終わったのか、明日香が朱莉の方を向いて手招きをしてきたので、2人の元へ向かった。「どうして、あんな離れたところで待っていたんだ?」翔が朱莉に尋ねてきた。「はい……。私は英語が話せませんのでパイロットの方に何か話しかけられても答える事が出来ないので、離れた場所に立っていました」「何だ。それ位の事別に気にする事じゃないのに。質問されたら俺が通訳を……」翔がそこまで言いかけた時、明日香がその上から言葉を重ねてきた。「ええ、そうね。朱莉さん。高校の通信教育も大事だけど、一応書類上とはいえ、鳴海家の家族になった以上、最低でも英語くらいは話せるようにならないと。努力を怠っている人間に見られるわよ?」「は、はい……すみません……」顔を赤くして明日香に謝る朱莉を見て、さすがに翔はまずいと思った。「お、おい……明日香。今の言い方は幾らなんでも……」「何よ? 翔だって、今後夫婦で呼ばれるパーティーとかにいずれは出席しなければならなくなる時がくるのよ? 海外の取引先の家族とだって会う機会があるでしょう? 仮にも鳴海グループの副社長の妻が英語も話せないとしられると、恥をかくのは翔、貴方なのよ? 私は……2人の為に言ってるのに……」明日香が涙目になってくるのを見て、朱莉は焦った。「す、すみません! 全ては私の勉強不足がいけなかったんです! 日本に帰国したら英会話の勉強も頑張ります。明日香さんのお陰で自分の今の立場が良く理解する事が出来ました。ありがとうございます」朱莉が丁寧に頭を下げるのを見て、翔は少しだけ胸が痛んだ。(俺が余計な事を言ったばかりに……。もう本当にこれ以上朱莉さんを構うのはやめておこう。そうしないと明日香の朱
明日香の企画した島めぐりツアーはそれは素晴らしいものであった。手配した水上飛行機はVIP用に内部を改造されたもので、座席は広々とした皮張りののソファにテーブルセットが置かれている。ソファはベッドにする事も可能となっている。TVやWi-Fi設備も整い、機内に置いてある冷蔵庫には十数種類のアルコールまで置かれていた。「今から私たちはバア環礁の島に行くのよ。そこでシュノーケリングをする予定だから、アルコールはやめておいた方がいいわね」明日香が翔に話しかけているのを隣の席で聞いていた朱莉が尋ねた。「あの……今日はシュノーケリングをする予定だったのですか?」「ええ、当然じゃない。モルディブまで来てシュノーケリングをやらないなんて話にならないわ」実は2人には内緒にしていたのだが、まだ朱莉は体調が万全とは言えない状態であったのだ。微熱も少しあるし、ましてやシュノーケリング等やった事もないのに、今の自分の身体では出来るはずもない。「あ、あの……。私は病み上がりですので、シュノーケリングはどうぞお2人で行ってきて下さい」「あら、そうなの? だってさっき電話ではすっかり良くなったと言っていたじゃないの?」不機嫌そうな顔で明日香が言うが、しかし、そこを素早く翔は止めた。「まあ、いいじゃないか。考えても見ろ。昨日まで熱があったんだ。しかもなれない海外だし……無理してまた熱がぶり返したら大変だろう? 朱莉さんの言葉に甘えて2人でシュノーケリングをしよう。……悪いね、朱莉さん」翔はチラリと朱莉を見る。「いいえ。私の事はお構いなく。潜らなくても綺麗な海を見れるのですから、私はそれだけで十分ですから」「そうね。それじゃ貴女は陸で留守番していてちょうだい。そうだわ! 島に降りたらまず記念写真を取らなくちゃね。おじいさまにちゃんとモルディブへ行ったことを証明する写真が必要だから」 **** それから約40分かけて、水上飛行機は バア環礁の島に着水した。「うわー、やっぱり素敵な場所ね。青い海に白い砂浜……」飛行機から降り立つとすぐに明日香は感嘆の声を上げた。「ああ、本当に美しい場所だな」翔は明日香の肩を抱き、愛おし気に見つめている。そんな2人の仲良さげな姿を見る度に、朱莉の胸は何かに刺されるかのようにズキリと痛んだ。翔が明日香に向けるあの視線は、一生自分が得る
「お、おい! 明日香! 一体、なんて写真を朱莉さんに取らせるんだよ!」翔は顔を真っ赤にして明日香に抗議した。「あら。別にそれくらい、いいじゃないの。仲の良いカップル同士ならキスしてる写真の1枚や2枚どうって事無いのよ?」「そんな事言うけどな……朱莉さんにあんな写真撮らせるなんて……」そこで朱莉は慌てて首を振った。「あ、あの! 私のことなら気にしないで下さい! た、確かに多少は驚きましたが……そ、その……素敵な写真を撮る事が出来ました……」最後の方では朱莉の声が消え入りそうになっていた。これを明日香と翔は朱莉の照れからきているのだとばかり思っていたのだが、それは大きな間違いであった――「それじゃ、翔。行きましょうか?」ヤシの実をデザインしたビキニの水着姿になった明日香が同じく水着姿の翔に声をかけた。「ああ、分かったよ」「それじゃ、朱莉さん。2時間位楽しんで来るから、貴女は何処かで時間を潰して置いてちょうだい」「はい、分かりました」朱莉が返事をすると、翔はそれじゃよろしくと簡単に朱莉に告げただけで振り向く事もせず、2人で海へと向かって行った。2人の背中を見送り、やがて見えなくなると朱莉は溜息をついた。「まさか……あんな写真を撮ることになるなんて……」朱莉は桟橋に座り込むと膝を抱えて美しい景色を眺めた。なのに。思い浮かぶのは先ほどの翔と明日香のキスシーンの映像ばかりだ。そして気付けば朱莉の目には涙が浮かんでいた。(馬鹿だな……私。明日香さんと翔先輩が恋人同士なのは知ってるのに……2人がキスしているのを見せられただけで……こんなにショックを受けるなんて……私……それだけ翔先輩の事が好きだったんだ……)朱莉は抱えた膝の上に自分の頭を埋めた。だが、朱莉が傷ついていたのはそれだけでは無い。ホテルを出た頃から翔が何となく以前より冷たい態度を取るようになったのも朱莉の心を傷つけるには十分だった。 翔は明日香の風当たりが朱莉に強く向けられるのを防ぐ為にわざと素っ気ない態度を取るように決めたのだが、そんな翔の考えが朱莉に伝わるはずもなく、ますます朱莉の心は傷付いていく。ぼんやりと海を眺めていたが、やがて朱莉は立ち上がった。(こんなに綺麗な場所なんだもの。もう二度と来れないだろうから、ちゃんと目に焼き付けておかないとね) 朱莉はスマホを取り出すと、
朱莉が再び先程の場所へ戻っても、未だに明日香たちが戻ってくる気配は無い。(この先どうしようかな……)この島は飛行機の上から見た島々の中では比較的大きい島の様で、ビーチ沿いには水上ヴィラが立ち並んでいる。(海の上に立っているなんて素敵なホテルだな……。もし、この契約結婚が終わって、お母さんも丈夫な身体になれていたら一度二人で泊まってみたい)そんな事を考えていると、ようやく明日香と翔が帰って来た。明日香はかなりハイテンションになっており、大きな声で騒ぎながら翔の腕にしっかり絡め、こちらへ向かって歩いてくる。「お待たせ、朱莉さん」「お帰りなさい、お2人供。どうでしたか? シュノーケリング楽しめましたか?」「ああ。そうだな」翔は相変わらず朱莉と目を合わそうとせずに素っ気なく返事をする。その様子を何故か明日香は満足そうに見て、口元に薄っすらと笑みを浮かべると朱莉に向き直った。「シュノーケリング、最高だったわ。海は綺麗だし、魚の群れは可愛かったしね~。朱莉さんも一緒にやれば良かったのに。ね、翔もそう思わない?」明日香は翔にしなだれかかる。「あ、ああ……。でもやるかやらないかは本人の自由だから、俺達がどうこう言うべき事では無いと思うけどな」翔は朱莉の方を見向きもしない。(翔先輩……)朱莉は悲しい気持ちを押し殺し、笑顔で言った。「私はこの素敵な景色を見れただけで充分楽しめましたから。それに、あそこに立ち並んでいる水上ヴィラもとても素敵ですね。外側から少しだけ見たんですけど、海の上にホテルが建っているなんて驚きました」「あら、そうなの? 知らなかったのかしら? まあ貴女じゃ、無理ないわね。そうね……空き部屋があれば泊まれない事も無いんだけど。でも難しいわね、きっとこの時期は」明日香は肩をすくませる。「……それなら食事だけでもこのヴィラのレストランで食べて行こう」翔が明日香を見つめた。「あ! そうね。それがいいわ。ついでにシャワールーム借りられないかしら~」明日香がチラリと翔の方を見た。「よし、分かった。それも合わせて聞いて来るよ」翔がヴィラの方へ向かって歩いて行くと、明日香が尋ねてきた。「ねえ? 朱莉さん……。貴女、ひょっとして何か翔を怒らせる事したのかしら?」「え!?」突然不意を突かれた質問に驚く朱莉。「い、いえ……。私は別
明日香と翔がホテルのシャワールームを借りて出て来るのを朱莉はホテルのラウンジでおとなしく待っていた。このホテルは水上ヴィラだけあって、訪れている客は全てカップルだらけである。(他の人達から見たら私達って完全におかしな組み合わせって思われてしまうんだろうな…)朱莉は心の中で小さなため息をついた。何気なくスマホを手に取ったその時、メッセージが入っていることに気が付いた。開いて見ると2件メッセージが入っており、1件はエミ、そしてもう1件は琢磨からであった。(え……? 九条さんから? どうしたんだろう? 何かあったのかな?)わざわざ琢磨から、メッセージが入るとは……。何か急ぎの用事なのかもしれない。そこで先に琢磨のメッセージから読むことにした。『こんにちは、朱莉さん。御加減はいかがでしょうか? こちらから紹介させていただきました現地ガイドの女性から体調を崩されたと連絡を受けました。その後のお身体の具合はいかがでしょうか? 何かお困りのことがあればいつでも連絡を下さい。出来る限り対処させていただきます』「九条さんて相変わらず、真面目な人だな。取りあえず、返信しておかないと」『こんにちは。おかげさまで体調は殆ど良くなりました。今は明日香さんと翔さんに誘われて、モルディブの島めぐりをしています。これから水上ヴィラのレストランで食事をするところです。気に掛けていただいて本当にありがとうござます』メッセージを打ち込んで、送信すると今度はエミからのメッセージを開いた。『アカリ、具合はどう? 楽しんでる? 明日はアカリの為にとびきりのガイドをしてあげるから楽しみにしていてね。返信はしなくて大丈夫よ。都合が悪くなった時には連絡いれてね』「エミさん……」朱莉はギュッとスマホを握りしめて思った。明日香と翔の側にいるのは辛いけど、自分は周りの人々に恵まれていると感じた。それからさらに10分程待っていると、明日香と翔が腕を組みながらこちらへ戻って来る姿が目に入った。2人仲良く腕組みをして歩く姿は正に美男美女の誰が見てもお似合いのカップルそのものである。「お待たせ、朱莉さん」明日香はすっかりご機嫌な様子で朱莉に声をかけてきた。「すまない、待たせたね」翔も言いながらソファに座るが、そこには何の感情も伴ってはいない。「ああ、そうだ。朱莉さん! 素晴らしい話があるのよ
ホテルの中のレストランはビュッフェスタイルで、どれもが絶品の味だった。特に朱莉が気に入ったのは色々な食材を自分でトッピングして食べるヌードルだった。ボイルしたエビやイカ、タコ……それにワンタン。組み合わせ自在で、麺の歯ごたえも朱莉の好みだった。食事をしながらチラリと自分の向かい側に隣同士で座る明日香と翔の様子に目を配る。明日香はまるで新婚の新妻の如く、時折フォークに刺した料理を翔の口に入れて楽しそうに笑っている。そしてそんな明日香を愛おし気に見つめる翔の瞳。(駄目よ、あの人達を意識しちゃ……。私のこの気持ちを2人にだけは絶対に知られちゃいけないのだから)朱莉は自分の存在を消す様に静かに、黙々と食事を口に運んだ。食事終了後、翔が席を外した時に明日香が尋ねてきた。「ねえ、朱莉さん。私と翔は島の散歩に行って来るけど、貴女はどうするの?」「え……? 私ですか?」本当は朱莉もこの素敵な島の散歩をしてみたいと思ったが、そんな事は口に出せるはずもない。いっそ、自分に声をかけないでくれていたら、時間をずらし散歩に行く事が出来たのに。朱莉は一瞬、ギュッと口を結ぶと言った。「私は部屋で休んでいます。それで……お聞きしたい事があるのですが。私、何も着替えとか用意していないのいです。明日香さんは着替え持って来ているのですか?」「ええ、一応持って来てるわ。あ……そうだったわね。ごめんなさい、朱莉さん。突然誘ったから着替えの準備をしていなかったのよね?」「はい……でも1泊だけなら着替えなくても大丈夫です」「あ、大丈夫よ! 私の服を貸してあげるから。予備に持って来ているのよ。それに新品の下着もあるから、貴女にあげるわ。見た所私とサイズ的にそう変わらないように見えるしね」明日香は朱莉の身体をジロジロ見ながら言う。「え? いいのですか? でも迷惑では……」「何言ってるの? それぐらい私にとってはどうってことないわ。そうね……今夜10時に私達のヴィラに服と下着を取りに来てくれるかしら? 鞄に入れて部屋の入り口においておくから」「はい、ありがとうございます」朱莉は深々と頭を下げた。**** 夜の帳が下りて、すっかり辺りが暗くなり、ヴィラがオレンジ色の明かりに包まれる頃。朱莉は自分が宿泊している水上ヴィラを出た。確か明日香と翔が宿泊している部屋は自分の部屋から右
翌朝―― 朱莉はぼんやりした頭で目が覚めた。時計を見るとまだ朝の6時を少し過ぎたところであった。どうやら昨夜は泣きながら眠ってしまっていたようで顔に触れると涙の跡が残っている。こんな顔で明日香と翔の前に顔を見せるわけにはいかない。朱莉は急いでベッドから起きると洗面台で顔を洗い、じっと自分の顔を鏡で見る。「駄目駄目、こんな顔していたら……笑顔でいなくちゃ」そして口角を上げて無理に笑顔を作って笑ってみる。「うん、これなら……多分大丈夫だよね……」そしてエミにメッセージを送った。『おはようございます。朝早くからすみません。実は今一緒に旅行に来ている方たちと別の島に遊びに来ていますので、本日の予定はキャンセルさせて下さい。申し訳ございません。また連絡させていただきます』メッセージを送った後、朱莉はぼんやりと外の景色を眺めていた。外はこの世の物とは思えないほどの美しい景色が広がっているというのに、朱莉の心はちっとも晴れやかでは無かった。瞳を閉じると、どうしても昨夜の明日香と翔の抱き合っている姿が蘇ってきてしまう。それに翔は朱莉があの時、室内へ入ってきたことにはまるきり気が付いている様子は無かったが、明日香ははっきり朱莉の顔を見た。そしてあろうことか、勝ち誇ったような顔で朱莉を見て笑みを浮かべたのだ。つまり、明日香は始めから自分と翔の情事の場面を朱莉に見せつける為に、自分たちの部屋へと呼んだのである。朱莉は何故明日香がそこまで自分に意地悪をするのか分からなかった。ましてや男女の行為を朱莉にわざと見せつけるなど…常軌を逸しているとしか思えない。(私はそれ程までに明日香さんに憎まれているの………?)普段から明日香と翔の生活の中に入り込まないようにしていた。電話もかけず、1週間に1度だけのメッセージの交換しか行っていないというのに。朱莉にはこれ以上どうやって自分の気配を消せばよいのか、もう分からなくなっていた。明日香にとっての朱莉は空気のような存在どころか、目の上のたんこぶのような存在なのかもしれない。いっその事、完全に無視してくれている方が、どんなに精神的に楽だろう。だが、明日香はそれすら許してはくれないのかもしれない。本当は今すぐ水上飛行機に乗ってヴェラナ国際空港のある、現在朱莉が宿泊しているホテルに帰りたいくらいだった。明日香とどんな顔
しかし、それから1時間以上経過しても明日香達からは何の音沙汰も無い。そうなると朱莉は別の意味で心配になってきた。ひょっとしたら、あの2人は自分を置いて、別の島めぐりに飛行機に乗って出かけてしまったのではないだろうか……? 悪い考えばかりが頭に浮かんでくる。10時まで待って何の連絡も来なければ自分の方から明日香のスマホに連絡を入れてみよう……。朱莉はそう心に決めた。するとその矢先、突然朱莉のスマホが鳴った。手に取ると着信相手は明日香からであった。朱莉は慌ててスマホをタップすると電話に出た。「はい、おはようございます」『朱莉さん? 貴女今何処にいるの?』「どこって……部屋ですけど?」『嫌だ。まだそんな所にいるの? もうホテルを出るからすぐに荷物をまとめてラウンジまで来てちょうだい。早くしてよ!』すぐに電話は切れてしまった。(え? そういう事だったの? 私は2人に特に連絡を入れず食事に行っても良かったと言う事なの?)本当は自分から、朝連絡を入れるべきだったのだろうか? だが昨夜の2人の情事を見せられ、その最中の明日香と視線が合ってしまったと言うのに、どうして連絡など出来るだろうか?「そっか……一緒に来ていても、1人で行動しなさいって事だったんだね……」思わず、悲しみが込み上げて手が止まってしまい、スマホの着信で我に返った。相手は当然明日香からである。『どう? 朱莉さん、もう片付けは終わったの?』イライラした口調で明日香がいきなり尋ねてくる。「あ、すみません。まだです……」『まったく随分呑気な人ね? いい? 人を待たせてはいけないのよ? こんなの一般常識じゃないの」すると脇から翔の窘める声が聞こえてきた。『まあ、いいじゃ無いか。明日香。ほら、昨日撮影したデジカメの画像でも見て待っていよう』電話越しに聞こえてくる翔の声は、朱莉に向けられるそれとは違って、とても優しい声だった。『全く仕方ないわね……それじゃ待ってるから早く準備して来なさいよ?』一方的に電話を切られてしまった。ふう……。朱莉は小さくため息を付いた。「急がなくちゃ。明日香さんを怒らせたらいけないものね」そして少ない荷物を片付け始めた―― 朱莉が荷物を持ってラウンジに行くと、翔と明日香が仲良さげにデジカメを覗き込んでいた。「すみません、お待たせいたしました」す
「いえ、私は別にお金の為では無く……」口にしかけたが、明日香にぴしゃりと言われた。「貴女ねえ……こういう場合はしのごの言わずに黙って受け取るのよ。何? それともお金以外に何か下心でもあったのかしら?」「おい、明日香!」翔は咎めようとしたが、明日香が憎悪の込めた目で朱莉を見つめていたので、何も言うことが出来なかった。(駄目だ。俺が朱莉さんを庇い建てするとますます彼女の立場が不利になってしまう)「あ、明日香さん……。謝礼金……ありがたく受け取らせていただきます」朱莉は消え入りそうな声で明日香に礼を述べた。「そうそう、最初から素直にお金を受けとると言ってれば良かったのよ」「はい、それでは私は今夜はここで失礼します」朱莉は頭を下げて部屋を出て行こうとした。「俺が車で送るよ」翔がそう言った時、突如として明日香がジロリと翔を睨み付けた。「何ですって? 朱莉さんを送るって言ったのかしら?」「あ、ああ……。車で病院迄来ているから。彼女を自宅まで送れば、俺も着替えを持って来れるだろう?」すると明日香が目に涙を浮かべる。「酷い……翔……」「え? どうしたんだ? 明日香」「こっちは自宅で意識を無くして病院に運ばれて入院したって言うのに……翔はそんな私を放って朱莉さんを自宅まで送るって言うの!?」「い、いや……。でも、ほら……大分外も薄暗くなってきているし……」「薄暗いって言ったってまだ7時にもならないでしょう!? 子供じゃないんだから朱莉さんは1人で帰れるわよっ! ねえ……心細いのよ、翔。何処にも行かないでよ!」明日香は翔に縋りついてきた。「明日香……」明日香の髪を撫でながら朱莉を見た。「あの、私の事なら大丈夫です。1人で帰れますので、どうか気になさらないで下さい。それでは明日香さん、どうぞお大事にして下さい」朱莉は頭を下げると、翔の返事も聞かずに足早に部屋を立ち去って行った。(朱莉さん……)翔の脳裏には先程朱莉が見せた悲し気な顔がいつまでも残っていた――****朱莉は美しい光に照らし出されたビル群の間を口を結んで黙って歩いていた。電車に乗っている時も下唇を噛み締めていた。億ションに向かって歩いている時は数学の公式を頭の中で唱えていた。そして、エレベーターに乗り込み、自宅の部屋の鍵を開けて室内へ入ってから、初めて朱莉はきつく
翔は自宅から入院に必要な荷物や保険証を用意すると、すぐに朱莉から教えて貰った明日香の入院先の病院へと向かった。病院に到着したのは午後6時過ぎ。翔は急いで明日香が入院しているナースステーションへ向かうと面会手続きを済ませ、明日香が入院している701号室へと向かった。701号室はこの病院の特別室となっていた。「朱莉さん!」701号室の廊下に置かれたパイプ椅子に朱莉が座って通信教育の勉強をしている姿が目に飛び込んできた。「あ、翔さん。お待ちしておりました」朱莉は立ち上がると会釈する。「朱莉さん。今日は本当にありがとう。貴女のお陰で明日香が大ごとにならずに済んだよ。本当に感謝している」「いえ、私は明日香さんからメッセージを貰って、それで倒れている明日香さんを発見して救急車を呼んだだけですから」「それで、何故廊下にいるんだい? 中へは……」そこまで言いかけて翔は言葉を飲み込んだ。ひょっとすると朱莉自身が病室に入るのを拒んでいるのか、それとも明日香に拒絶されたか……。どちらかなのだろう。「それでは、翔さんもいらしたことですし、私は失礼しますね」朱莉は立ち上がるとテキストをカバンにしまって立ち上がった。「ま、待ってくれ。朱莉さん! 明日香はもう目が覚めてるのか?」「はい。看護師さんの話では1時間ほど前に意識を取り戻したそうですよ?」「なら一緒に中へ入ろう! 明日香に礼を言わせるから!」「え? で、でもあの……」朱莉は動揺しているが、翔は思った。(何。明日香は朱莉さんに自ら助けを求めたんだ。今なら2人は少し歩み寄れるチャンスかもしれない)「さあ、一緒に病室へ入ろう」翔は朱莉の右手首を掴むと明日香の病室のドアを開けた。「明日香! もう具合が良くなったんだってな?」翔は笑顔で明日香の病室へと入って行く。「翔! 遅かったじゃない! って朱莉さん! 貴女……翔と何やってるのよ!」明日香の鋭い声が朱莉に向かって飛んでくる。「す、すみません」朱莉がビクリとなって翔に掴まれ散る右手を引こうとした。その時になって翔は自分が朱莉の手首を握りしめていたことに気が付いた。(まずい!)翔は慌てて朱莉の手首を離した。「違う!明日香、今のは誤解だ。俺が勝手に朱莉さんの手首を掴んでいたんだ」そして慌てて明日香に近付く。「明日香。朱莉さんに礼は伝えた
17時――無事に商談を終えた琢磨と翔はオフィスで珈琲を飲んでいた。すると、突然琢磨のスマホに着信が入った。琢磨はその着信相手を見て怪訝そうに首をひねる。「え……? 朱莉さんからだ……?」「朱莉さんからメッセージが入ったのか?」翔は珈琲をデスクに置いた。「あ、ああ。なんだろう? まさか明日香ちゃんが朱莉さんの部屋へ行ったのか?」「琢磨、早くメッセージの内容を教えてくれ!」翔がせっつく。「分かった」琢磨はスマホをタップしてメッセージを開いた。『お忙しいところ、申し訳ございません。実は明日香さんから突然<たすけて>とメッセージが入って来たので、お部屋に伺った所、倒れている姿を発見いたしました。呼びかけても反応が無く、すぐに救急車を呼びました。今は六本木の総合病院に運ばれて眠っております。病名は、<過換気症候群>でしたが命に別状はありませでした。ただ、念の為に本日は入院をするように先生から言われております。申し訳ございませんが、お手すきの時にお電話いただけないでしょうか?』琢磨と翔は2人でメッセージを読み、息を飲んだ。「明日香……!」翔の顔色が変わる。「おい、翔。過換気症候群て、いわゆる過呼吸っていうやつだろう? 今までにも同じ症状を起こした事はあるのか?」「分からない……。少なくとも、俺と2人きりの時はそんな症状を起こしたことは無かった」「すまない翔。多分、明日香ちゃんが過呼吸を起こしたのは俺のせいだ。お前朱莉さんに直接連絡入れろ。そしてすぐに病院へ行けよ。何、もう今日の重要な仕事は終わったんだ。早く明日香ちゃんの所へ行ってやれ。あまり朱莉さんに負担をかける訳にはいかないからな」「ああ、分かったよ」翔はその後、すぐに朱莉のスマホに直接電話をかけた。2人は暫く電話で会話のやり取りをしているのを琢磨は自分のデスクで仕事をしながら、時々様子を伺っていた。(それにしてもあのプライドの高い明日香ちゃんが朱莉さんに助けを求めるなんて……余程苦しかったのだろうな。だけど、これをきっかけに少しでも明日香ちゃんの朱莉さんに対する心情が変化して、歩み寄ってくれれば……)しかし、そこまで考えて琢磨は首を振った。一瞬でも馬鹿な考えを持ってしまったと思った。例え、明日香の心情に少し変化が現れたとしても今まで明日香に散々嫌な目に遭わされてきた朱莉に取っ
ここは港区にある六本木の総合病院――朱莉は入院病棟の待合室の長椅子に1人座っていた。――カチャリ病室のドアが開き、初老の男性医師が看護師を伴って病室から出てきた。「あ、あの……彼女は……明日香さんはどうなったのでしょうか?」朱莉は立ち上がると男性医師の側へ足早に近付き、声をかけた。「ええ、今は安定剤で落ち着いたのか眠っております。患者さんは過換気症候群になっておりました」「過換気症候群……? あの、それはもしかして過呼吸というものでしょうか?」朱莉は首を傾げながら質問した。「はい、そうですね。精神的な不安や緊張感といった強いストレスから過度に呼吸をし過ぎて発症してしまい、呼吸困難や息苦しさといった症状を引き起こします。これが悪化すると痙攣や麻痺が身体に現れてくる場合もあります。今回の患者さんは過呼吸の症状が強く出てしまったようですね。でももう大丈夫です。こちらで適切な処置を施して精神安定剤も投与したところ、落ち着きを取り戻されて今はお休みになっています。あの……失礼ですが、貴女は患者さんとどのようなご関係でしょうか?」医師に聞かれた時、朱莉は一瞬ドキリとした。(関係……? 私と明日香さんの関係……明日香さんには嫌がられるかもしれないけれど……)「私は彼女の親戚です…」医師の目を見ると朱莉は答えた。(大丈夫、嘘は言っていない。だって今私は明日香さんと同じ『鳴海』の姓を名乗っているのだから)「ああ。ご親戚の方でしたか。でも患者さんの側にいられて本当に良かったです。1人ですと余計患者さん御自身が不安な気持ちになり、症状が悪化してしまう事もありますので。取りあえず様子を診る為に1日だけこちらで入院して下さい。では、後の話は看護師から話を聞いて下さい」医師はそれだけ告げると去って行った。 代わりに今度は看護師が朱莉に声をかけてきた。「まずは入院手続きを取らなければなりませんので、こちらの書類に必要事項の記入をお願いします」バインダーに挟まれた書類を朱莉に手渡した。「はい」朱莉は書類を受け取ったが、正直に言うと困っていた。書類には生年月日やら血液型、既往歴、現在服用している薬……等々様々な項目を記載しなければならなかったが、朱莉には住所と電話番号以外は何1つ記入する事が出来なかったからである。「あ、あの」書類に目を落していた朱莉
「…っ! おい、翔! その話……本当なのか?」「ああ……」「お前なあ……。確か子供だって生まれたら朱莉さん一人に育てさせるつもりでいたよな? しかも、朱莉さん本人が生んだようにして……。一体明日香ちゃんは何を考えているんだよ!」とうとう我慢できず、琢磨は机を叩いた。「不安なんだって……言ってた……」「え? 不安……?」「自分は本来なら鳴海家にいていいはずの人間じゃないって……。鳴海家には血のつながってる家族がいないから……本当の家族が欲しいって言ってるんだ。だから子供が欲しいって……」琢磨は下唇を噛んだ。(そうか……自覚があったのか……。まずいことを言ってしまったな)その様子に気が付いた翔が声をかけてきた。「どうした? 琢磨。何かあったのか?」「実は……本来、明日香ちゃんは海家において貰っている立場だってことを忘れるんじゃないと、つい口が滑って言ってしまったんだ……」「そうか……まあいい、気にするな。これは俺と明日香の問題だから」「確かにお前と明日香ちゃんの問題ではあるが……子供を産みたいとなるとそれはまた別問題だからな?明日香ちゃんが薬をやめたのは子供が欲しいからなんだな?」「そうだ」頷く翔。「俺は医者じゃないから良く分からないが、あんな精神状態で妊娠生活を送れるのか? とても無理だとは思わないか? 悪いことは言わない。今はまだ考え直してくれ。お前たちの為だけじゃない、俺は朱莉さんのことも考えて言ってるんだ」「朱莉さんの為か……。そうだな、それは当然だな」「いいか。朱莉さんは今高校卒業の資格を取る為に通信教育を受けているんだろう? 少なくとも3年間は勉強を続けないといけない。それなのに、明日香ちゃんの子供が生まれたらどうするんだ? お前たちは朱莉さんに育てさせるつもりなんだろう? それとも朱莉さんを巻き込まずに、明日香ちゃんとお前の2人で生まれてきた子供の子育てをすると言うなら……もう勝手にするがいいさ」「明日香に子供を育てるのは無理だ」「だったら、最初から子供のことは諦めろよ!」再び琢磨は声を荒げたが……ため息をついた。「すまなかった翔。後2時間もすれば大事な商談が始まるって言う時に……。出来るだけ俺も協力するから、今は目先の仕事のことを考えよう」「ああ……そうだな」翔は顔を上げて無理に笑みを作ると書類に目を通し
翔がPCに向かっていると、オフィスのドアが開いて琢磨が部屋へと入って来た。「……戻ったぞ……」琢磨は疲れ切った様子で、ドサリと自分の椅子に座った。「どうした? 随分疲れ切っているように見えるぞ?」声をかける翔。「あ、ああ……。まあな、ちょっと色々あって……今、少し話せるか?」「大丈夫だ。何があったんだ?」「お前と明日香ちゃんの部屋へ行ってきたんだ。お前の私物を少し朱莉さんの部屋へ移動させる為にな。「何だって?」翔は眉をしかめた。「どうしてそんな勝手な事をするんだ……とでも言いたいのか?」「いや、俺のことよりも……明日香の様子はどうだった?」「そりゃあヒステリーを起こして大変だったよ。何だか以前より酷くなっていないか? 精神安定剤飲んでるんだろう?」「いや……実は今は飲んでいないんだ」「なんでだ? 医者からやめていいと言われたのか?」「言われていない」その言葉に琢磨は肩をすくめる。おいおい…。もう一度医者に行くように言えよ。あれじゃあお前だってたまったもんじゃないだろう? 家に帰ったって、あんなヒステリックな明日香ちゃんと一緒だと気が休まらないんじゃないか?」「俺は……これは俺が受けるべき罰だと思ってる」しんみりと答える翔。「はあ? 何言ってるんだよ? それに今まで聞かずにいたけど……お前、明日香ちゃんからDV受けているだろう?」「!」翔の肩がピクリと動く。「やっぱりな……。全く、鳴海グループの御曹司が恋人からDVを受けているなんて話……笑えないからな?」「俺のこと……情けない男だと思っているだろう?」翔は自嘲気味に笑った。「翔……。悪いことは言わない。一度明日香ちゃんを入院させたらどうだ? あれはもう酷いなんてものじゃない」「そんなことをして、世間にもしばれたらどうするんだ!? マスコミにかぎつけられて最悪、俺と明日香の関係までばれたらこの会社はどうなる!?」「都心ではない……どこか地方の療養施設に暫く明日香ちゃんを預けるんだよ! な? 悪いことは言わない。何も何カ月も入院させるわけじゃない。せめて長くても半年……短くても3カ月……。その間に明日香ちゃんは治療に専念する。お前はゆっくり休める。……悪い話じゃないと思うぞ?」「明日香がそんな話、納得すると思うのか?」「ああ、納得なんか絶対にするはずはないだろ
朱莉に案内されたのはウォークインクローゼットであった。「どうぞ、見てください」琢磨にワードローブにしまってある服を見せた。スーツが20着ほど吊るされ、収納ケースにはきちんと春物や夏物に仕分けされた服が畳まれてしまってある。下着類も丁寧に畳まれて収納されていた。「凄いですね。そこまできちんと考えられていたなんて」琢磨は感嘆の声を漏らすと同時に、ある事に気付いた。「あの……ご自身の服は購入されていますよね? 今見せていただいた場所は全て副社長用の服しかない様ですね。こちらに置かれている全ての収納ケースを拝見しましたが、奥様のはございませんね? 別の場所におかれているのですか?」「はい。ベッドルームのクローゼットにしまってあります」そこで琢磨は引っ越し準備のことを思い出していた。朱莉がこの部屋に越して来る為に、琢磨は何度もこの部屋を訪れていた。必要な家電や家具を購入し、それらを配置する為に、連日通い詰めていたのだからよく覚えている。(まてよ……。確かあのベッドルームには確かにクローゼットはあるが、大した大きさじゃなかったよな?)琢磨はそのことを思い出し、朱莉に尋ねた。「あの……奥様の衣類は全て、そのクローゼットで収まっていると言うことですか?」「はい。そうですが?」「副社長からはカードを預かっておりますよね? それで自由に買い物をするようにと言われていたと思いますが?」すると朱莉は顔を赤らめる。「確かにそう言われましたが、翔さんのカードをお借りして買い物をするのは何となく気が引けて……それで自分の分は月々の手当から買っていました」琢磨はそれを聞くと胸がズキリと痛んだ。(そこまで彼女に気を遣わせてしまっていたなんて……!)「それは副社長が奥様に使っていただきたいと思い、渡されたカードです。書類上の結婚とは言え、奥様は正式な副社長の妻なのです。なのでどうか遠慮されずにそちらのカードで必要な物は全て購入されてください。そして月々振り込まれるお金は……これは私個人の意見ではありますが、将来の為に貯金されることをお勧めします」「九条さん……」「申し訳ございません、余計なことを話してしまいました。どうやら私が持ってきた服は必要無かったようですね。このまま持ち帰らせていただきます。それともう一つ確認を取らせていただきたいのですが、食器類なども全て
部屋でPCを前に通信教育の勉強をしていた朱莉のスマホに電話がかかってきた。着信相手は琢磨からだったのだ。「え……? 九条さん? すぐに出なくちゃ」朱莉はスマホをタップすると電話に出た。「はい、もしもし」『ご無沙汰しています、九条です。この間は写真の件で無理を言ってしまい、大変申し訳ございませんでした』「いえ、別にそれ位はどうということはありませんから。あ、もしかしてその件でわざわざお電話を?」『いえ、違います。実は大変急な話で申し訳ございませんが、今ご自宅の前におります。もしご都合がよろしければ少々伺ってもよろしいでしょうか? 奥様に大切なお話があります」(え? もう家の前に……? どうしたのかな?)いつも用意周到な彼にしては珍しい事だと朱莉は思った。だが……。「はい、大丈夫です。今玄関を開けますね」玄関へ向かい、念のためにドアアイで確認すると、大きな紙袋を手にした琢磨の姿があった。(え? あの荷物何だろう……?)朱莉は急いでドアを開けた。「こんにちは、お会いするのはお久しぶりですね。突然訪問してしまい、申し訳ございません」琢磨は深々と朱莉に頭を下げた。「い、いえ……。大体は部屋におりますので、どうぞ気になさらないで下さい。それで、今日はどのようなご用件でしょうか?」「ええ。じつは会長が近々日本に一時帰国されるそうです」「え? 会長って……翔さんの御爺様ですよね?」「はい、そうです。それで一度、副社長に自宅を訪問したいと伝えてきたそうなんです」「! そ、そうですか……」ああ、ついにこの日がやって来てしまったのかと朱莉は思った。いずれは翔の親族が客として訪れるだろうと言うことは覚悟していたが、いざそれが現実化されるとなると、朱莉は不安な気持ちで一杯になった。思わず俯く朱莉に琢磨は謝ってきた。「申し訳ございません」「え?」「いずれ会長がこちらにお越しになるのは分かり切っていたことだったのに……問題を先送りしておりました」「問題……?」「はい。恐らく会長はお2人の新居での生活の様子を知りたいと思っているはずです。しかし実際にはお2人は一緒に住んだことも、それどころか副社長はこのお部屋にすら入ったこともありませんよね?」「は、はい。その通りです……。あの、それは私が翔さんにあまり良く思われていないから……だと思います
――ピンポーン インターホンを押すと、ドアが開けられて不機嫌そうな明日香が顔を覗かせた。「……随分早かったのね。琢磨」明日香は露骨に嫌そうな視線を琢磨に向けるが、それを気にも留めずに琢磨は言った。「ああ、急いでここへ向かったからな。それじゃ中へ入らせて貰うよ」「ちょ、ちょっと……!」明日香の非難する声も、ものともせずに琢磨は部屋に上がり込むと、翔の衣服やらスーツを片っ端からクローゼットから出していく。「な……何するのよ! 琢磨!」明日香は琢磨が翔の背広に手をかけた時、片側の袖を掴んで引っ張りながら抗議した。「翔の服を何処へ持って行くつもりよ!」「それを俺に聞くのか? 明日香ちゃん。翔から聞いたぞ? 昨夜会長から連絡が入ったそうだな? 近々日本に一時的に帰国するそうじゃないか。それで朱莉さんと翔の新婚生活の様子を見たいって言言われたんだろう? 恐らく朱莉さんは翔の日用生活品は用意してるだろうが流石に服までは用意していないはずだ。だからこの部屋から翔の服を朱莉さんの部屋に移動させるのさ」琢磨はニヤリと不敵な笑みを浮かべる。「な……何ですって……! 彼女の部屋に翔の服をですって? 嫌よ! そんな事させないわ! 翔の服なら彼女が適当に買って用意すればいいでしょう?」「随分無茶な事を言うんだな? 女性が1人だけで男性用の服やら下着をほんの数日で揃えきれると思ってるのか? 何せ、お前達兄妹が着ている服は全てブランド品ばかりだしな?」「ちょっと! 私と翔を兄妹って言わないでよ!」明日香はヒステリックに叫んだ。「何がいけない? 世間的には明日香ちゃんと翔は血の繋がりは無いが、戸籍の上では立派な兄妹だ。会長だってそれを分ってるからお前達の結婚を認めていないんだろう? いいか? 今から俺がやろうとしていることに文句を言ったり、この件で朱莉さんに言いがかりを少しでもつける様なら、俺は全て会長に報告するからな? 2人の結婚が偽装だと言うことも、偽造結婚に関する契約書だって全てな。あれを作ったのはこの俺だ。それらを全て会長に証拠として提出する。そんなことになれば明日香ちゃんも翔も終わりだぞ? きっとそれらが知れたら会長はお前達を許さない。翔に会社を継がせるって話も消えて無くなるかもしれないぞ?」(尤も俺自身だって終わりには違いないだろうけどな……)琢磨は